こんにちは。カトー(@hisayosky)です。
現在無職のため1日中家におります。
時間いっぱいあっていいわねぇ~。
「会社を辞めれば時間はいっぱいある」とぼくも思っていました。
実際、独身なので育児や家族のことに時間は使いませんし、在職中と比べればめちゃくちゃ時間があります。
でも会社を辞めて一人で作業するようになってから「時間は有限である」と強く意識するようになりました。
じつをいうと会社を辞める前から時間の有限さを少しずつ意識し始めていたのですが、退職してよけいに強くなったかんじです。
時間にかぎらず無限なものってまずありません。でも無限であるかのように考えてしまいがちです。
すると残りを考えた使い方はできません。必然的に使い方は雑になります。
有限さを意識するとものの使い方が変わります。時間でも具体的なものでもなんでもそうです。
有限さを意識しているかどうかは使い方という「行動」でわかります。
ぼく自身、この1年あまりで行動が変わりました。たとえば、
- 会社を辞めていいと思えるようになった
- 自宅でも10時間程度の作業が可能になってきた
が行動の変化にあたります。
こういった変化は「時間の有限さ」を意識したから起こったのだと思っています。
今回はぼくに「時間の有限さ」を意識させた経験を2つ紹介します。
「有限さ」がわからないと時間を上手に使うことはできません。
「こんなことが有限さを意識するきっかけになったのか」と思って読んでいただければお役に立つかもしれません。
ではいってみましょう。
有限さを意識しない=無限にあると思ってしまう
唐突ですが、あなたは節電していますか?
原発事故のような衝撃的なできごとがあると「節電」の機運がぐっと高まりますが長続きしません。
東日本大震災から7年がたった今、銀座を歩くとネオンサインがキンキラキンです。
でもこれって無理からぬことと思っています。
なぜなら、電気は実質使い放題だから。
もちろん使うほど料金は発生します。でも使い切ってしまうことはありませんよね。
電力会社と契約している限りは「あと30分使ったら今日使える電気は底をつきます」という状況にはなりません。
逆に自前で電気を生産している家庭では残量がとても気になるはずです。無駄な使い方はできるはずがありません。
残量を気にせずに使えるこの状況で節電するのは無理だと思います。
電気をもっと大切に使ってもらうなら残量を意識させるのが一番確実でしょう。
使える量の残りを意識できるか。
これがものを大切に使えるかどうかの鍵です。
そしてこの鍵は電気以外にも当てはまります。
ぼくに「時間の有限さ」を意識させた2つ経験
ぼくは時間を無限にあるものと思っていました。
人がいつか死ぬことはもちろん承知しています。
でもそれはいまではない。近い将来でもない。来るか来ないのかわからないくらいずっと遠い未来のことと思っていました。
夜眠りにつけばなんの努力をしなくても朝が来ます。
自分の意思とは関係なく毎日時間が供給されています。
こんな毎日だと「時間は無限に使い放題」と思ってしまってもおかしくありません。
そんなぼくが「時間って本当に有限だ!」と意識せざるをえない経験をしました。
家族の衰え
近年、自分の衰えより家族の衰えがわかりやすく目につくようになってきました。
祖父は昨年脳梗塞を患い、いまは歩行器でやっと歩ける状態です。もともとがっしりとした体躯で力仕事もなんなくこなしていた人です。
母は膝を悪くし正座を極力避けています。歩くのがしんどいこともあるようです。
父は一見なんともありませんが腕は顕著に上がらなくなっています。さらに「70まで生きたら死んでもいい」と公言するようになっています。
自分自身のおとろえはもちろんありますが、いまは家族の衰えのほうがわかりやすく衝撃が大きいです。とくに祖父を見ていると「祖父との残りの時間」を考えずにはいられません。
ぼくが実家に帰省する頻度を増やしたのは「祖父との残り時間」を意識するようになってからのことです。
「残り時間の意識」は他の家族、友人、さらには自分自身の人生にまで徐々に範囲を広げていきました。
自宅での作業
最近はまったく違う側面からも「時間の有限さ」を意識するようになっています。
いまぼくは自宅で作業をしています。朝起きてから夜寝るまで作業につぎ込める時間は潤沢にあります。
だからたくさんのことができると思っていました。
ところがやってみると1日のうちにできることってずいぶん少ないのです。
ぼくは朝起きると1日の予定をPDCAノートに書きこむのですが、予定をすべて消化できることはほとんどありません。
「1日のぜんぶの時間をつぎ込めばなんでもできる」という意識があったのだと思います。
1日という時間を半ば無限にあるもののように考えていました。
詰め込めると思っていたものがことごとく余ってしまう体験を毎日繰り返すことで、1日は思っているほど長くなく確実に限りのある時間であることが意識されるようになりました。
「限りあるもの」として考えたとき納得できる使い方ができているか
生きている時間に限りがあるということはすべての活動にも限りがあるということです。
歩数、呼吸数、まばたきの回数なども生きたぶんだけ確実に残量が減っていっています。
ぼくは会社の業務記録をパソコンで書いていました。
書きたいから書いていたのではなく、書くことが業務の一部だったから書いていました。
でもあるときふと思ったんですね。
キーボードを叩ける回数も有限じゃね?と。
限られた回数しか叩けないキーボードなのに、ぼくはなにをやっているんだと。
貴重なキーボード残高を毎日書きたくもない業務記録に大量つぎ込むのって非常にもったいないじゃないかと。
「タイピングできる回数には限りがある」と考えたとき、いま書いているものには残高を減らしてまで書くだけの価値があるだろうかという意識が芽生えました。
そして「こんなことにタイピング回数使いたくないな」と思いました。
有限さを意識すると、ものを「なんとなく」使うことができなくなります。
時間とすべての行動は納得できるものに使いたいと思うようになるはずです。
ぼくはいま膨大なタイピング回数を記事作成に費やしています。これは100%納得できる使い方です。
まとめ:時間が有限であるとわかれば無駄遣いはできなくなる
- 無限にあると思うとじゃんじゃん使ってしまうものだよ
- 有限だと思ったら時間の使い方は絶対かわるよ
- カトーは「家族の衰え」と「1日で消化できる作業量」で時間の有限さを意識するようになったよ
- どうせなら納得できるものに時間を使うのがいいよ
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